ぢゅちさんの「今日も日々是内省。」

ストレングス1位に「内省」を持つ内省家が、内なる言葉を綴ります。

湯船に浸かるようにしている。

最近、湯船に浸かるようにしている。


それは、今年の夏から異常に汗を書くようになってしまっていて、そして自分でも気になるくらい汗の匂いが気になるようになってしまったから。


汗の匂いは、食生活やストレスなどが原因とも言われているけれど、私の場合はそれに加えて、運動不足や冷房による汗腺機能の劣化が原因ではないかと考えている。


そこで、湯船に使ってちゃんと汗をかけるようにすれば、汗はかくけれど匂いが少し軽減するのではないかと考えたわけ。


匂いの方の効果についてはまだ分からないけれど、ちゃんと湯船に浸かって汗をかいてから寝るようになったら、夜中に目が覚めることが少なくなったのは、思わぬ収穫だった。


湯船にはだいたい腰の辺りまでお湯を張り、蓋をしめて、タブレットなどを持ち込んで動画などを見ている。以前はドラマくらいしか見るものがなかったけど、最近はYouTubeを見る習慣を持てるようになってきたので、観るコンテンツは欠かないし、Kindle でマンガや本を読んだりもする。


そうしているうちに額や胸、背中などから汗が滴り落ちてくる。それを感じながら30分くらいは浸かるようにしている。


湯船に浸かるようになると思い出すのが、アニメ新世紀エヴァンゲリオンミサトさんの有名なセリフ、「風呂は命の洗濯よ」というやつ。でも、それを受けて風呂に浸かるシンジくんは「風呂って嫌なことを思い出す方が多いよなあ」と言う。


私はどちらだろう。


基本的にネガティブな私は、頭の中にあることは大抵「嫌なこと」だったりする。だから、当然、お風呂でも嫌なことを考える。ほとんどシャワーで済ますことが多かったこれまでは、シャワーの音に合わせて大声で「アホ」だの「バカ」だの「死ね」だの、暴言を吐いたりもする。


それは他人に向けて言っているようで、そんなことを口に出してしか発散できない自分自身に向かってだったりしていたような気もする。


湯船に浸かるようになってからは、それは少なくなった気がする。というか、音が響くから、そんなことを呟けなくなったのか。そこはまだよく分からない。けれど、嫌なことを考えても、汗とともにそれは流れ出てくれているような気もする。


最近も、ものすごくガッカリするようなことがあって、この文章を書く今も、頭のたぶん90%くらいでそのことを考えている。私は、執着しやすくて、一度、頭から外そうとしてもまた同じことを考えてしまうというようなことがあって、それは他人に話したり忙しくしたりしても、やっぱり元に戻ってきてしまうのだ。


それでも、湯船に浸かっている間は、その毒素みたいなものが汗と一緒な流れ出てくれている感じはあって、お風呂から出た瞬間は、やっぱり以前のシャワーだけのときよりは身が軽くなったような感じがしている。


だから、やっぱりお風呂は命の洗濯なのかもしれないな。

部屋のライトを交換したい。

私はインテリアに興味がある。

とは言っても、センスがある方ではないと思うし、ちゃん勉強もしたことがない。

 

今、部屋で一番直したいのが、ライティング。

 

初めて一人暮らしを始めた鎌倉の家はデザイナーズハウスだったので、部屋のライトは、電球型のダウンライトが備え付けであり、そこから今の家に引っ越してきたときに、まず困ったのが照明器具を持っていないことだった。

 

そのときはあまり深く考えず、「狭い一般的な部屋だったらやっぱりシーリングライトだろう」と、コストパフォーマンスの高いLEDのシーリングライトを購入してしまった。前の家が、部屋の中がちょっと暗かったのが気になっていたことも理由にあった。購入したときは、部屋がとても明るいし、満足はしていた。洗面所の照明とかも、電球色じゃなくて昼白色のLEDに変えてしまうくらい明るくしたかった。

 

でも、最近、家にいることが多くなって、このシーリングライトが部屋をつまらなくしているなと感じるようになってきていた。とは言っても、照明の選び方ってどういう風に選んだらいいのかというのがあんまりよく分からず、安い買い物ではないし、躊躇してしまうところがあった。

 

で、最近お気に入りで見ているこの Tommy さんの動画がとても参考になった。なるほど、フォーカルポイントっていう概念を考えればいいんだ、と。そして、私の考えていたとおり、狭い部屋ではダクトレールのライトが一番手軽にできそう。

 

それから、配線レスのライトも実は気になってた。あんまり物は増やしたくないから、色々と兼用できた方がいいなぁと思っていて、最近、震災の備えとかも考えるようになってきたから、そう考えるとモバイルのライトがいいなぁ、と。

 

メインのライトを交換したら、そういうモバイルのライトを数個購入して、持ち運びながら使うのもいいなぁなんて思ってます。

 

▪️ SUB) 間接照明の選び方・置き方【センスに頼らないインテリア#2】

https://youtu.be/sXlgEs3w3oQ

 

#インテリア

「間違っている」ということ。

「間違っている」ということ。


それは、この時代、この場所に住む多くの人が持っていると思われる価値観によって判断されるもの、私はそういう風に捉えている。


例えば、数十年前の戦争の時代において、敵であるものは殺してしまうのは、「間違っている」という判断はされなかった。


例えば、日本で違法とされていることが、海外では合法であったりもする。

 

例えば、あなたに取って間違っていることは、もしかしたら私に取っては正しいことかもしれない。


「間違っている」というのは、そういうものであるということ。


時代、場所が変われば、「間違っている」と思われていたことが「正しい」とされるかもしれない。


だからって、「間違っていると簡単に言うな」とかは言わない。この時代、この場所において、間違っているということは、やっぱり間違っているんだと思う。それを主張してもいいとは思う。


けれど、「間違っている」ということは、そういう「価値観」と呼ばれるものが前提にあって、それは時間や場所が変われば変わるものであることを知っておくこと、そして、意識しておくことは非常に大事なんじゃないかと思っている。

全部コロナのせいにして逃げられるのなら、今はそれでいいと思う。

なんだか嫌なニュースが目につく。

 

この未曾有の事態にみんな不安定になっていて、何かの判断が誤ってしまっているんじゃないかと感じることが増えてきた。


でも、実はそんなことはなくて、これまで明るみに出てなかったことが、心の内側が明るみに出るようなことになってしまっただけかもしれないとも思うし、倫理観や価値観の変化によるものかもしれないとも思う。


そうなってくると、別にコロナのせいではないのかもしれないけれど、解決できなくて苦しい想いをするのであれば、一旦全部「コロナのせい」として逃げてしまってもいいと思う。そうやって、どうにか苦しさをやり過ごしていかないと、本当に呼吸ができないほどの状態になってしまっている気がする。


間違ったことをするかもしれない。
それはでも、この時代のこの時にある世の中の価値観によって判断されたもの。
そして、その間違いというのは、誰しも身にも起こることかもしれないもの。


間違ったことをしたら叱る。
それは正しいことかもしれない。
でも、どうか、そこに愛情という気持ちを添えた言葉であって欲しい。


全部コロナのせい。
今は本当にそれでいいよ。

私はあまりメモを取らない。

私はあまりメモを取らない、「書くネタ」については特に。

私が文章を書くときは、頭の中から言葉があふれそうなときくらい。
誰かのために書くのでもないと思うし、自分のために書くのでもない気がする。
ただただ、頭の中から出てきたもののやり場がなくなってしまったから書く。
そういう文章の書き方。

私の文章をときどき面白いと言ってもらったりもする。
だから「書くことを仕事にできたらいいな」と思ったりもする。
でも、実は書くことも特に好きではないのかもしれない。
だって、書くときは書くけど、書かない時はプツっと何も書かなくなったりする。
基本、締め切りがないと動かない怠け者。

こうやって文章にするものは、ずっと頭の中では考えていることが多い。
メモは取らないけれど本当にずっと。
1週間とか2週間とか、しばらく取りつかれて、仕事中でもお風呂に入っていても、
ずっとそのことを考え続けてしまうくらいに。

そうやって頭の中をめぐって出てきた言葉は、
熟考を重ねているから面白いのかもしれないし、
逆に熟考を重ねているからこそ本心ではないような気もする。

ただ、考え続けていることによって、
自分でも思いがけない言葉が出てきたりするからそれはそれで楽しいのだ。

幸せでないことを感じられることは、実は幸せなことなんだと思う。

幸せでないことを感じられることは、

実は幸せなことなんだと思う。

 

自分が「幸せでない」と定義している中に入っているその当人たちは、

きっと「自分が幸せである」とか「幸せでない」とか感じられる余裕すら与えられていないのだから。

 

でも、だからと言って、彼らが本当に幸せでないわけでもない。

必死に幸せに生きていることだってある。

 

結局、不幸せの原因の全ては「ないものねだり」だと思うし、幸せの定義は自分自身で決めるしかないということ。

 

#内省メモ

No Title

初めて「死にたい」と思ったのは、小学校の高学年のことだったんじゃないかと思う。
死ぬのが怖くなかったわけではないから、自死を選ぶことはできなかった。


ただ、生きているということは、楽しいことよりも明らかに辛いことの方が多いと思っていたし、今でも心の底でたぶんそう思っている。


だから、私はその苦行を後世に残してはいけないと思っているし、少なくとも私のような考えを持つ遺伝子を後世に残すよりも、「人生は楽しいものだ」と思う遺伝子が後世に残った方がいいだろうと思うから、やはり私の遺伝子は残してはいけないんのではないかと、そう思うことがよくある。、


その小学校高学年の頃から、私はずっと「生きている」のではなくて「生かされている」という思いを持ち続けている。


様々な災害や悲しい事故が起こり、たくさんの命が失われていく中、未だに自分がこうして生かされてしまっていることには、たぶん意味や天命があるのだと、そう思って生きている。


そして、その意味はきっと死ぬまで分からないのだろうとも思う。それでいいとも思っている。


そんなことを考えながら、自分の命をどう使うのかを日々考えている。


私は果たしてこの仕事を続けていくのだろうか。
今、また迷っている。
自分の命をこの仕事に捧げて良いのだろうかと。


じゃあ、今の仕事を辞めて何をしていくのか。


そう考えたときに、私はやはり「言葉を綴っていく」ことしかできないのではないかと感じ始めている。

 

言葉で何かを届けることでしか、自分が力を発揮できることはないのではないかと。


だから、その気持ちを今、ここに認めておくことにした。


この後、自分が何を選んで何を選ばないのか、どう変化をしていくのか変化していかないのか、それは分からないけれど、今はただ、それでいいとしておこう。