ぢゅちさんの「今日も日々是内省。」

ストレングス1位に「内省」を持つ内省家が、内なる言葉を綴ります。

きもちよく。ここちよく。

最近のテーマは「きもちよく。ここちよく。」かもしれない。

 

年が変わって4か月経とうとしているけれど、いまさらながらに今年の目標が定まった感じがする(笑)でもいいじゃない。目標なんて元旦に立てなくちゃいけないものでもないし。「思い立った日が吉日」とも言うしね。

 

昔からそうなんだけど、自分はややもすると「〇〇しなくちゃいけない」みたいなことになっていることがよくある。「仕事を一生懸命やらなくちゃいけない」「勉強も頑張らなくちゃいけない」「部屋をきれいにしなくちゃいけない」。それで、「できなかった」ことを挙げ連ねて落ち込む。

 

そんな性格ももう一緒に生きてきてうん十年だから簡単には変えられない。「性格も変えられない」ことに対しても「できなかった」ことの一つとして挙げては落ち込むから質が悪い(笑)内省あるあるだと思うけど、負のスパイラルに陥るケースね。

 

〇〇しなくちゃいけない、って勝手に自分にルールを決めて、厳しくする。それは成長のためには悪いことではないかもしれない。でも、できなかったことを挙げ連らねて改善し続けていく行為は、なかなか体力がいるし根気もいるし、それらがなくなっているときは落ち込む。人間、毎日そんなに元気じゃない。

 

ちょうどいい塩梅ってどこなんだろう、って思ったときに、「今、きもちいいか、ここちいいか」っていうのはいいかもしれないと思った。「今日はちょっと頑張れなかったな。でも、気持ちよく〇〇できたな。」それでいい気がする。「今日は朝寝坊して、ご飯をちゃんと作れなかった。でも、朝寝坊しているときは気持ちよかったからそれでいい」みたいな。

 

誰かに責められるようなことでないのだとしたら、自分でわざわざ責める必要ないよね。あんまり頑張りすぎず、きもちよく、ここちよく、を目指していきたいなぁと思っている今日この頃です。なので、ブログの更新も適当な頻度で「きもちよく。ここちよく。」

 

今日も日々是内省。

 

 

多様性 パート②

「多様性」という言葉が出てきた近年の中で一番気になっているのは、これまで生きてきた価値観に囚われて今の時代では決して適切とは言い難い価値観を持つ人たちに対して、嗜めるように「今の時代にその発言は適してないよ」と指摘をしてくる人がいること。

 

そういう時代を生きてきて、価値観をアップデート出来ずに過去の時代の価値観を持ち続ける人がいる、そういうことも含めて「多様性」なんだと思うから、「昔はそういう価値観だったよね」とか「へぇ」でよくて、別にわざわざ嗜める必要なんてない。価値観をアップデートできていないで困る可能性があるのは当人なのだから、基本的には放っておけばいいのだ。

 

ただし、その人の価値観がアップデートされていないことで、自分自身が恥ずかしい思いをするようなとき(例えば「家族」とか「友人」とか)であれば、もちろん指摘することも悪いとは言えないが、基本的には他人が口出しすることではないと思っている。

 

私としては、それが「家族」であってもそれは「私の課題」ではないから、本人がそれで幸せに過ごせているのであれば、基本的には放っておけばいい、というスタンス。アドラー心理学における「課題の分離」。

 

つまりは言いたいことは、やっぱり「この時代は(おそらくSNSの影響で)他人に対して過干渉だ」ということに帰結するかなぁ。

 

(もちろん、「 『今の時代にその発言は適してないよ』と指摘をしてくる人がいる」ということも含めて「多様性」なので、そういった自分と価値観の合わない人たちとどう接していくかについては「私の課題」ではあるのだが…)

 

相変わらずのグルグルのループ。これこそ、「日々是内省」ですな。

「多様性を認める」の前にあるもの。

色々な価値観を受け入れるのが「多様性を認める」ということだとするならば、他人の発言ひとつひとつに噛み付くようなことするのは、相手の価値観を認めることになっているのだろうか、とここ数年ずっと思っている。こんなことを発信すると、「噛みつくのだってひとつの価値観だ」とか言って反論してくる人が出てくるのが目に浮かぶ。

 

議論は平行線で、結局、「物分かりのいい方(余裕のある方)が折れる」か「体力のある方が勝つ」という形で決着するのが、今の世の中の構図になってる気がする。そうなると、「発信するのをやめよう」と思う人が出てくるし、声を上げて押し切ったものの方に、あたかも「勝った」みたいな優越感みたいなものが存在することになってしまうから、ますますその声が大きくなる。「勝者」という立場がこれまでの人たちから移動しただけで、世の中はなんら変わっていないのだ。そんな風に思う。

 

多様性という言葉を「免罪符」として都合よく濫用し、わがままに振る舞う人が増えたような気がする。多様性を認めるということは、価値観が違う人たちを認めて共存するということであるから、譲り合うとか、お互いに辛抱とか我慢とかが必要であるって話だと思うんだけどな。(本来は辛抱とか我慢とか思わなくても「譲り合う」ということが自然と発生するというのが理想郷なのだが)

 

結局のところ、「多様性を認める」というよりも前に必要なことは譲り合う気持ちを持てるだけの「余裕がある状態」ってことなんじゃないかなと思う。

 

…というわけで、断捨離は大事なんだよな。断捨離するかぁ(笑)

右利き、左利き。

私は生まれてすぐの頃、よく左手を使っていたらしい。特に無理矢理に矯正させたという話も聞いてないから、左利きというほどではなかったのかもしれないし、今では完全なる右利きではあるけれど、なんとなく最近、自分は右も左もないんじゃないかという感覚を持っているのかもしれない。

男性女性、右利き左利き、右脳左脳、文系理系、そういうもののバランスが中間に近いところにあるような感覚があるかもしれない。


結局、これらって相対的なものであって、左よりは右が使いやすい、芸術的な分野よりは論理的な方が得意、言葉よりも数字の方が得意。全部、相対的な話であって、どちらか一方ということはないんだよなぁと思う。


自分をどちらか一方に決めつけない方がいいし、他者と比較する必要もないし、そのバランスの組み合わせがきっと個性なんだろうな。

嘘をつかずに誠実でいたいと願うことは、ものすごくわがままなことだ。

最近、考えていたこと。

 

「嘘をつかずに誠実でいたいと願うことは、ものすごくわがままなことだ」

 

ということ。

 

これは「誠実でいる」という意識が自分に向いているから。相手にとって誠実であることを目的としてないから。

 

相手を思い、「心配させないように」とか気遣った嘘なら、それはついてもいいんだと思う。

 

それを「常に自分の気持ちに正直でいたい」などというのは、本当にどうしようもなく自己中心的である。

 

すごく反省をしていました。

似ていることと似てないこと。

「ものすごく分かる!」と共感をするところが多いから、自分の心を整えるために観てるのかなぁ。最近、更新があると観てしまってる。

 

もちろん、「あぁ、ここは自分とは違うなぁ」とか、「そういう考え方はしないなぁ」と感じることもあって。でも、やっぱり似ている部分は多い気がする。

 

私はやっぱり「似ている人」に安心感を覚えてしまうんだなぁ。これまでいくつかの海外に行かせてもらい、いろんな人に出会う経験をさせてもらったけれど、やっぱりいろんな刺激を受け入れるのは、私には向いてないんだと思う。

 

ハリウッド映画をほとんど見ないのもたぶんそう。そういう世界があることも受け入れながらも、自分はあまり触れたいとは思わない。

 

社交性が低いこととか、一人の時間が必要だったりすることとか、全てそうなんだよな。多様性があることを受け入れながら、でも、自分の中にあるものが多い物事にやっぱり惹かれる。

 

たぶん、誰しもそういう取捨選択はしているのだろうけれど、究極的に我が儘だから、それが顕著ということなのだろうか。それとも、程度は一般的なのかもだけれど、そういう自分に向き合ってる時間が長いという特性が、「なんて自分は我が儘なんだ」と思わせてしまっているいうことなのだろうか。

 

まあ、根がネガティブなんだろうなぁ。もちろん、それで救われることもあるから、悪いことだとは思ってないけれど。

 

それに、一般的であるかどうかについて、大して問題ではなくて。この動画内でも「みんながやってるからやるというのは、納得できない理由の一つ。」みたいなことが言われているけれど、ここは私が非常に共感するところの一つ。

 

やっぱり似ているんじゃないかなぁと思う。

 

#10 100の質問に答えるぞ!(気合十分) - YouTube

終えたい。そして、始めたい。

この春は自分が長年触れてきたコンテンツが、色々と終了してしまう。

 

漫画、アニメ、ラジオ番組、テレビ番組。

 

出会いと別れの季節ではあるが、どれも数年から十数年触れてきたものであり、それがこれだけ重なってしまうことに「運命思考」の私は何かしらの意味を求めてしまう。

 

いや、違うかな。

 

自分自身が何かしらを「終えたい」と感じているからこそ、そういうものが目につくということなのかもしれない。

 

いずれにしても、自分自身が気になることに共通点のようなものを見出そうとすると、それが自分の心が求めていたりすることだったりする。

 

そう、私は今、終えたいのだ。

 

終えて、新しいことを始めたい。

 

そういう気持ちがあるということを、ちゃんと言葉として残しておきたい。

 

#日々是内省