ぢゅちさんの「今日も日々是内省。」

ストレングス1位に「内省」を持つ内省家が、内なる言葉を綴ります。

「多様性を認める」の前にあるもの。

色々な価値観を受け入れるのが「多様性を認める」ということだとするならば、他人の発言ひとつひとつに噛み付くようなことするのは、相手の価値観を認めることになっているのだろうか、とここ数年ずっと思っている。こんなことを発信すると、「噛みつくのだってひとつの価値観だ」とか言って反論してくる人が出てくるのが目に浮かぶ。

 

議論は平行線で、結局、「物分かりのいい方(余裕のある方)が折れる」か「体力のある方が勝つ」という形で決着するのが、今の世の中の構図になってる気がする。そうなると、「発信するのをやめよう」と思う人が出てくるし、声を上げて押し切ったものの方に、あたかも「勝った」みたいな優越感みたいなものが存在することになってしまうから、ますますその声が大きくなる。「勝者」という立場がこれまでの人たちから移動しただけで、世の中はなんら変わっていないのだ。そんな風に思う。

 

多様性という言葉を「免罪符」として都合よく濫用し、わがままに振る舞う人が増えたような気がする。多様性を認めるということは、価値観が違う人たちを認めて共存するということであるから、譲り合うとか、お互いに辛抱とか我慢とかが必要であるって話だと思うんだけどな。(本来は辛抱とか我慢とか思わなくても「譲り合う」ということが自然と発生するというのが理想郷なのだが)

 

結局のところ、「多様性を認める」というよりも前に必要なことは譲り合う気持ちを持てるだけの「余裕がある状態」ってことなんじゃないかなと思う。

 

…というわけで、断捨離は大事なんだよな。断捨離するかぁ(笑)