ぢゅちさんの「今日も日々是内省。」

ストレングス1位に「内省」を持つ内省家が、内なる言葉を綴ります。

共感を求められるのが苦手。

共感を求められるのが苦手です。例えば、


「あれって大変じゃん!あなたもそう思うでしょ?」 


とか


「あの人、嫌だよねー」


とかいう人がいるけれど、私がよく思うのは、


「私はあなたではないし、全てを知っているわけでも、経験しているわけでもない。だから、判断ができません。でも、もし、あなたが辛い想いをしたのであれば、それを支えたいとは思っています。」


ってことがよくあります。そういうことを言うと、


「あなたは冷たい」


と表現されることはよくありました。


でも、私は、共感を示すということは、強い責任感が必要だと思うんです。特に相手が苦しんでいるときに共感してしまうと、相手の苦しみを私も半分背負うということになってしまいます。そして、強い依存関係が生じてしまいます。


その後、私が少しでも相手の意にそぐわない行動を取れば、それが憎しみに変わってしまうことだってあると思うんです。


だから、その覚悟を持って、共感を示すことが必要だと思うので、私はとても慎重なのです。


それは、共感力がないわけでも、想像力がないわけでもないとも思っていて。むしろ想像力が強いからこそ、簡単に共感しちゃいけないと思っているということです。


私も、相手が言っていることが、本当に私が感じていることと同じであれば、全力で共感を示すことはありますし、やはり共感してもらえることを嬉しくも思います。


けれど、共感を示してもらえなかったとしても、「そりゃ、私じゃないんだから仕方ないよね」ともいつも思っていて。


共感というのは、「するもの」であって、「求めるもの」じゃないと思うんです。


それで離れてしまったとしても、自分を偽るくらいの友人関係だったら、私はなくていいと思いますし、むしろ、たくさん共感し合えないことがあっても、なんか一緒にいちゃうだよなー、という人たちを大切にしたいなぁと思っています。


…なんて書いてるけどね、それは心の強いときに言える正論であって、心が弱ってるときにこんなこと言われちゃったら、泣いちゃうよね。私もたぶん泣いちゃう。

 

そんな私は、どこまでも我儘なんだなあと反省するのでありました(笑)


今日も日々是内省。

SNSの友達の優先順位。

私はSNS上で自分から友達申請をほとんどしません。もちろん、社交性が低いことが一番な要因の一つではあるのですが、もう一つの理由は、

 

「私が守れるものには限度があって、そこには優先順位がある」


と感じているからです。


SNSの友人というのは、どうしてもその優先順位の設定が難しく、一律に「友人」として扱うことになってしまいます。


もちろん、開示範囲などによって管理はできるのでしょうけど、その管理に自分の人生の時間の一部を費やしている余裕は正直なく…というよりは、管理することは優先順位の上に来ないので、だったら、私が守らたいと思えるくらいプライオリティの高い人たちだけを「友人」として登録しておきたいと感じており、なるべくそういう風な使い方をしています。


だから、友達申請が来たものに関しても、申し訳ないと感じながらも、安易には承諾をしていません。本当に繋がっていたいと感じた人だけを承諾しています。


また、繋がった人に対しても、ちょっと心の変化などによって、一旦距離を置きたくなったら、自分のタイムラインに上がってこないようにしたりも普通にしますし、自分の投稿が相手に見えないようにもしたりします。


こういうことに「公平性がない」とか「怖い」とか思われる方もいるかもしれませんし、それで離れることがあっても仕方ないと思います。それを受け入れた上でやっています。


それは私の優先順位の問題です。どう使うかは私自身に委ねられていることなので、アドバイスはありがたく思いますが、それを受けてどう使うかは、最後はやっぱり自分自身で決めるしかないと感じています。


…なんてことを、SNS上でも投稿しようと思ったりもしましたが、まあ、敢えて言う話でもないし、知っていて欲しい人が知っていればいいかな。

「私のせいで…」と思うことは、責任感なのか。

私は「ジンクス」みたいなものを意識してしまうタイプで。

 

ストレングスファインダーでも、VIA character でもポジティブがボトムなこともあり、基本的に私は自分のことを「あんまり運が良くない人」と思っているところがある。


そんなことを言うこと自体、本当に失礼なことで、五体満足で生まれ、教育を受けることができ、健康にもお金にも生活にもそれほど困っていなくて、悩みがありながらも、こうやって生かされていることは本当にありがたいことなわけで。


それでも自分のことをあんまり「運がいい」と思うことが多くないのです。理想が高いのでしょうか。

 

そんなわけで、今日のラグビーの試合とかも負けてしまったら、「私がリアルタイムで応援してから負けてしまったんじゃないか」とか思っちゃうのです。責任を感じちゃうのです。運が悪い私が応援しちゃったからではないかと。だから、スポーツの応援って、応援したい気持ちはありながらも、「私なんかが応援してしまったら…」みたいなことを思って、出来る限り私が関わらないようにするために、応援しないことを選んでしまったりするくらいなのです。


でも、たかだか私が見ている見ていないで試合の結果が変わると思っていること自体、非常におこがましい!マジ、何様だよ!と思う。頑張ってきたのは選手たちに失礼極まりない!


そんなわけで、これからは、思いっきり大声で応援して、勝ったら一緒に手を叩いて喜んで、負けたら一緒に悔しがって、どちらにしても気持ちいい試合をありがとうと伝えたいと思っているのです。

 

無事勝ててよかったー!感動した!最高!

「無駄なもの」とは何なのか。

「無駄なものをなくす」ということが、果たして「生産性を上げる」ということにつながるのかについては、しっかりと考える必要があると思っています。

 

例えば、「仕事中の雑談」は生産性には直接寄与しない分「無駄なもの」かもしれませんが、チームの状況を理解する上においては非常に重要な役割を担っていると考えます。

 

目先の利益だけに捉われると、大事なことを見失うかもしれません。

 

スクラムにおいて、プロダクトオーナーが求められることに、

 

スクラムチームのROIの最大化」

 

というのがあります。(というか、プロダクトオーナーに求められるのはそれに尽きるのですが…)

 

ここでのポイントは、

 

「『ステークホルダー』のROIの最大化」

 

でもなければ、

 

「『顧客』のROIの最大化」

 

でもなく、

 

「『スクラムチーム』のROIの最大化」

 

というところです。

 

つまり、他の人から見てどんなに無駄だと思われることであっても、スクラムチームが必要だと思うことであれば、それはやるべきかもしれない、ということです。

 

だから、プロダクトオーナーのトレーニングのときによく言われたのは、「席に座ってないで、歩き回ってよく観察する」ということでした。

 

最近はなんだか、うちの会社でも社会でも日本でも、「無駄なこと」を排除しすぎている気がしていて、ちょっと心配しています。

 

誰にとって「無駄」なのか、ひとりよがりになってないか、考えてみた方がいいかもしれないですね。

 

#スクラム

あなたの番ですの考察動画から考えるフリーライドについて。

明日、最終回を迎える「あなたの番です」の考察動画が YouTube でよく見ています。そのとき、「テレビの動画を上げて再生回数を増やすことと」「テレビの内容を利用して動画を上げて再生回数を増やすことの違いは何なんだろう」って考えていました。

 

当然、前者は法的にNGとされています。でも、後者はホームページの登場人物の写真などを利用して投稿をしてもあまり咎められているのを見ません。(厳密には、アウトの部分はあるのでしょうけど)

 

それは何故なのだろうか。

 

大きな違いは、「それをやることによって、私利私欲だけが満たされるのか、それとも素材を利用することで素材の提供者に対する利益にもなっているのか」という点かもしれません。

 

たしか任天堂が、ゲームのプレイ動画の投稿することを容認していましたが、あれは、動画を投稿してもらう事で任天堂のゲームに興味を持ってもら得る可能性も高まるから容認されている、と考えるべきですね。

 

これは「フリーライド」と呼ばれるものの考え方を理解する上で、分かりやすい気がします。

 

以前、経済評論家の勝間和代さんが、メルカリに新刊が出品されることについて不快感を示されていましたが、これも「フリーライドのひとつ」ということですね。

 

▪ メルペイ。青柳直樹代表取締役は、「新しい本を『借りるようにして読む』という、メルカリとメルペイならではの体験を届けられる」と話す、という記事に対する意見。著者及び出版社への敬意がまったくないと考えます。不愉快です。 - 勝間和代が徹底的にマニアックな話をアップするブログ

https://is.gd/pv3eF5

 

ただ、現実には、たくさん本を読みたいとなっても、お金が続かない、という人もいます。

 

だからせめて、読んでこの本は良かったと感じることがあったのであれば、新しく本を買い直したり、他の人に本を勧めたり、良かったことをシェアしたりしたいなと思います。


そして、物品を売る際には、「要らないから売る」というのではなく、「売って頂いた方に感謝をし、どこがどう素晴らしくて、どこが自分と合わなかったから、だから売るんですよ」ということを丁寧にお伝えしたいですね。

 

私たちは、色々なサービスを利用していますが、その裏には沢山の方々の努力があってこそ成り立っていることを忘れてはいけません。


自分がそのサービスを利用するときにおいては、きちんとその努力に対する感謝と対価が、サービスを提供する方々に支払われているかについては、きちんと考える必要があるなぁと感じました。

Time Box と Time Slice の話。

スクラムフレームワークには、スプリントと呼ばれる「固定の時間」があり、その中にセレモニーと呼ばれる様々なイベントがある。


私は毎週の週末に1週間の予定を確認し、計画を立て、食料をまとめ買いをしたりしている。そして、なるべく1週間で食材を使いきり、次の週には持ち込まないようにする。


時間を区切って、計画を立て、行動し、日々進捗を確認しながら、最後に「ゼロ」になっていることをレビューしているのだから、これはもしかして「スクラムフレームワークを使ってると言えるのか?」と一瞬考えてしまった。


でも、それは違う。


ここで出てくるのが昨日のトレーニングで話のあった「Time Slice」と「Time Box」の話。


時間区切っているだけでは「Time Slice」であり、その後に何も積み上がっていかないのだ。


スクラムにおいては「改善」がされていかなければならない。投資したものが積み上がっていくイメージ、それがつまり「Time Box」という考え方だ、ということを教えてもらった。


「なんちゃってスクラム」をやる人たちは、ここの概念がない可能性があるので要注意だし、自分も意識しなければならないなと感じた。

 

#スクラム

アフターケア系慎重さ。

ストレングスファインダーだと、私は「内省」が1位で、「慎重さ」が2位なんだけど、私の「慎重さ」の強みって、「アフターケア系慎重さ」な気がしてきました。

 

もちろん、何か行動を起こす前に、「あれは大丈夫だろうか、これは大丈夫だろうか」とリスクを洗い出したりはする。家電を購入するときなんかは、メジャーで測るのは当然、新聞紙で実際に大きさを作ってみて確認したりもすることもある。

 

でも、仕事においては、瞬発力を求められることがほとんどだし、最近ではアジャイル開発で「とりあえずやってみる」ということを推進してることもあるから、自分の中で小さなことだと判断ができれば、行動を起こす前に過度に考えすぎるということは少なくなってきてる気がします。(それでも初めてのことだったり、苦手なことだったりすると不安になってしまって、まだ全然スピードが遅いことは多々あるけど…)

 

瞬発力で反応してしまったことに対しては、一人になったときに、「あれで大丈夫だっただろうか?」ととても気になってしまいます。

 

やっぱりうまく伝わってない気がするとか、誤解を生んでしまってるかもしれないとか、嫌な想いをさせてしまったかもしれないとか。そうしたら、後で追加でフォローする、ってことがよくあります。

 

大抵、仕事からの帰りの電車の中での考え事は、「今日1日の仕事でまずかった対応はなかっただろうか?」という一人反省会議だし、一つの行動に反響があったりすると、もうずっとそのことばかりを考えてしまったり。2、3日引きずることは普通で、ひどいと1週間くらい考えていて。

 

で、まずいなあと思ったことがあったら、アフターケアを行動として起こす。そして、その間にも当然別の行動をしているので、次から次へと反省は出てくるから、上書きしてるうちに、過去の行動に対して考える時間は徐々に減っていき忘れていく、という循環。

 

このアフターケアがあることに好意を持ってもらったことは何度かあったなぁ、と今朝、とあるアフターケアをしていて考えてました。これは、内省+慎重さの私らしさだと思うので、うまく活かしていきたいです。