ぢゅちさんの「今日も日々是内省。」

ストレングス1位に「内省」を持つ内省家が、内なる言葉を綴ります。

全部コロナのせいにして逃げられるのなら、今はそれでいいと思う。

なんだか嫌なニュースが目につく。

 

この未曾有の事態にみんな不安定になっていて、何かの判断が誤ってしまっているんじゃないかと感じることが増えてきた。


でも、実はそんなことはなくて、これまで明るみに出てなかったことが、心の内側が明るみに出るようなことになってしまっただけかもしれないとも思うし、倫理観や価値観の変化によるものかもしれないとも思う。


そうなってくると、別にコロナのせいではないのかもしれないけれど、解決できなくて苦しい想いをするのであれば、一旦全部「コロナのせい」として逃げてしまってもいいと思う。そうやって、どうにか苦しさをやり過ごしていかないと、本当に呼吸ができないほどの状態になってしまっている気がする。


間違ったことをするかもしれない。
それはでも、この時代のこの時にある世の中の価値観によって判断されたもの。
そして、その間違いというのは、誰しも身にも起こることかもしれないもの。


間違ったことをしたら叱る。
それは正しいことかもしれない。
でも、どうか、そこに愛情という気持ちを添えた言葉であって欲しい。


全部コロナのせい。
今は本当にそれでいいよ。

私はあまりメモを取らない。

私はあまりメモを取らない、「書くネタ」については特に。

私が文章を書くときは、頭の中から言葉があふれそうなときくらい。
誰かのために書くのでもないと思うし、自分のために書くのでもない気がする。
ただただ、頭の中から出てきたもののやり場がなくなってしまったから書く。
そういう文章の書き方。

私の文章をときどき面白いと言ってもらったりもする。
だから「書くことを仕事にできたらいいな」と思ったりもする。
でも、実は書くことも特に好きではないのかもしれない。
だって、書くときは書くけど、書かない時はプツっと何も書かなくなったりする。
基本、締め切りがないと動かない怠け者。

こうやって文章にするものは、ずっと頭の中では考えていることが多い。
メモは取らないけれど本当にずっと。
1週間とか2週間とか、しばらく取りつかれて、仕事中でもお風呂に入っていても、
ずっとそのことを考え続けてしまうくらいに。

そうやって頭の中をめぐって出てきた言葉は、
熟考を重ねているから面白いのかもしれないし、
逆に熟考を重ねているからこそ本心ではないような気もする。

ただ、考え続けていることによって、
自分でも思いがけない言葉が出てきたりするからそれはそれで楽しいのだ。

幸せでないことを感じられることは、実は幸せなことなんだと思う。

幸せでないことを感じられることは、

実は幸せなことなんだと思う。

 

自分が「幸せでない」と定義している中に入っているその当人たちは、

きっと「自分が幸せである」とか「幸せでない」とか感じられる余裕すら与えられていないのだから。

 

でも、だからと言って、彼らが本当に幸せでないわけでもない。

必死に幸せに生きていることだってある。

 

結局、不幸せの原因の全ては「ないものねだり」だと思うし、幸せの定義は自分自身で決めるしかないということ。

 

#内省メモ

No Title

初めて「死にたい」と思ったのは、小学校の高学年のことだったんじゃないかと思う。
死ぬのが怖くなかったわけではないから、自死を選ぶことはできなかった。


ただ、生きているということは、楽しいことよりも明らかに辛いことの方が多いと思っていたし、今でも心の底でたぶんそう思っている。


だから、私はその苦行を後世に残してはいけないと思っているし、少なくとも私のような考えを持つ遺伝子を後世に残すよりも、「人生は楽しいものだ」と思う遺伝子が後世に残った方がいいだろうと思うから、やはり私の遺伝子は残してはいけないんのではないかと、そう思うことがよくある。、


その小学校高学年の頃から、私はずっと「生きている」のではなくて「生かされている」という思いを持ち続けている。


様々な災害や悲しい事故が起こり、たくさんの命が失われていく中、未だに自分がこうして生かされてしまっていることには、たぶん意味や天命があるのだと、そう思って生きている。


そして、その意味はきっと死ぬまで分からないのだろうとも思う。それでいいとも思っている。


そんなことを考えながら、自分の命をどう使うのかを日々考えている。


私は果たしてこの仕事を続けていくのだろうか。
今、また迷っている。
自分の命をこの仕事に捧げて良いのだろうかと。


じゃあ、今の仕事を辞めて何をしていくのか。


そう考えたときに、私はやはり「言葉を綴っていく」ことしかできないのではないかと感じ始めている。

 

言葉で何かを届けることでしか、自分が力を発揮できることはないのではないかと。


だから、その気持ちを今、ここに認めておくことにした。


この後、自分が何を選んで何を選ばないのか、どう変化をしていくのか変化していかないのか、それは分からないけれど、今はただ、それでいいとしておこう。

共感を求められるのが苦手。

共感を求められるのが苦手です。例えば、


「あれって大変じゃん!あなたもそう思うでしょ?」 


とか


「あの人、嫌だよねー」


とかいう人がいるけれど、私がよく思うのは、


「私はあなたではないし、全てを知っているわけでも、経験しているわけでもない。だから、判断ができません。でも、もし、あなたが辛い想いをしたのであれば、それを支えたいとは思っています。」


ってことがよくあります。そういうことを言うと、


「あなたは冷たい」


と表現されることはよくありました。


でも、私は、共感を示すということは、強い責任感が必要だと思うんです。特に相手が苦しんでいるときに共感してしまうと、相手の苦しみを私も半分背負うということになってしまいます。そして、強い依存関係が生じてしまいます。


その後、私が少しでも相手の意にそぐわない行動を取れば、それが憎しみに変わってしまうことだってあると思うんです。


だから、その覚悟を持って、共感を示すことが必要だと思うので、私はとても慎重なのです。


それは、共感力がないわけでも、想像力がないわけでもないとも思っていて。むしろ想像力が強いからこそ、簡単に共感しちゃいけないと思っているということです。


私も、相手が言っていることが、本当に私が感じていることと同じであれば、全力で共感を示すことはありますし、やはり共感してもらえることを嬉しくも思います。


けれど、共感を示してもらえなかったとしても、「そりゃ、私じゃないんだから仕方ないよね」ともいつも思っていて。


共感というのは、「するもの」であって、「求めるもの」じゃないと思うんです。


それで離れてしまったとしても、自分を偽るくらいの友人関係だったら、私はなくていいと思いますし、むしろ、たくさん共感し合えないことがあっても、なんか一緒にいちゃうだよなー、という人たちを大切にしたいなぁと思っています。


…なんて書いてるけどね、それは心の強いときに言える正論であって、心が弱ってるときにこんなこと言われちゃったら、泣いちゃうよね。私もたぶん泣いちゃう。

 

そんな私は、どこまでも我儘なんだなあと反省するのでありました(笑)


今日も日々是内省。

SNSの友達の優先順位。

私はSNS上で自分から友達申請をほとんどしません。もちろん、社交性が低いことが一番な要因の一つではあるのですが、もう一つの理由は、

 

「私が守れるものには限度があって、そこには優先順位がある」


と感じているからです。


SNSの友人というのは、どうしてもその優先順位の設定が難しく、一律に「友人」として扱うことになってしまいます。


もちろん、開示範囲などによって管理はできるのでしょうけど、その管理に自分の人生の時間の一部を費やしている余裕は正直なく…というよりは、管理することは優先順位の上に来ないので、だったら、私が守らたいと思えるくらいプライオリティの高い人たちだけを「友人」として登録しておきたいと感じており、なるべくそういう風な使い方をしています。


だから、友達申請が来たものに関しても、申し訳ないと感じながらも、安易には承諾をしていません。本当に繋がっていたいと感じた人だけを承諾しています。


また、繋がった人に対しても、ちょっと心の変化などによって、一旦距離を置きたくなったら、自分のタイムラインに上がってこないようにしたりも普通にしますし、自分の投稿が相手に見えないようにもしたりします。


こういうことに「公平性がない」とか「怖い」とか思われる方もいるかもしれませんし、それで離れることがあっても仕方ないと思います。それを受け入れた上でやっています。


それは私の優先順位の問題です。どう使うかは私自身に委ねられていることなので、アドバイスはありがたく思いますが、それを受けてどう使うかは、最後はやっぱり自分自身で決めるしかないと感じています。


…なんてことを、SNS上でも投稿しようと思ったりもしましたが、まあ、敢えて言う話でもないし、知っていて欲しい人が知っていればいいかな。

「私のせいで…」と思うことは、責任感なのか。

私は「ジンクス」みたいなものを意識してしまうタイプで。

 

ストレングスファインダーでも、VIA character でもポジティブがボトムなこともあり、基本的に私は自分のことを「あんまり運が良くない人」と思っているところがある。


そんなことを言うこと自体、本当に失礼なことで、五体満足で生まれ、教育を受けることができ、健康にもお金にも生活にもそれほど困っていなくて、悩みがありながらも、こうやって生かされていることは本当にありがたいことなわけで。


それでも自分のことをあんまり「運がいい」と思うことが多くないのです。理想が高いのでしょうか。

 

そんなわけで、今日のラグビーの試合とかも負けてしまったら、「私がリアルタイムで応援してから負けてしまったんじゃないか」とか思っちゃうのです。責任を感じちゃうのです。運が悪い私が応援しちゃったからではないかと。だから、スポーツの応援って、応援したい気持ちはありながらも、「私なんかが応援してしまったら…」みたいなことを思って、出来る限り私が関わらないようにするために、応援しないことを選んでしまったりするくらいなのです。


でも、たかだか私が見ている見ていないで試合の結果が変わると思っていること自体、非常におこがましい!マジ、何様だよ!と思う。頑張ってきたのは選手たちに失礼極まりない!


そんなわけで、これからは、思いっきり大声で応援して、勝ったら一緒に手を叩いて喜んで、負けたら一緒に悔しがって、どちらにしても気持ちいい試合をありがとうと伝えたいと思っているのです。

 

無事勝ててよかったー!感動した!最高!